2014/09/09

小樽、本当の富とは何か

小樽観光2日目。





長崎屋とかに寄りつつ、小樽駅近くの中央卸売市場へ。





あまり活気はない。





今度は三角市場へ。中の通路がずっと坂になってておもしろい。小樽らしい市場。





それから商店街とかブラブラしつつ……。





日本銀行旧小樽支店、金融資料館へ。小樽でいちばん見たかったのは運河ではなくここだったりする。昨日は閉まってたから今日になっちゃったけど。





おお、すげー。銀行の銀行である日本銀行は一般人にはまったく縁のない場所だと思われがちだけど、実は窓口で税金収めたりできるのよね。





窓口の向こう側には日本銀行の歴史……というか日本経済の歴史の展示ゾーン。





銀本位制から金本位制へ。





金本位制から管理通貨制へ。当時の新聞記事の切り抜きがめちゃくちゃリアルでおもしろい。いやこれリアルに発行された新聞なんだろうけどw

こういうの、当時は知識階級にしか理解できなかったんだろうなあ。それがいまは中卒の僕でも理解できるというところに歴史の進歩を感じる。





最初は物々交換から始まって、持ち運びのしやすい貴金属が価値の代替表現として使われるようになり、さらに持ち運びやすくされてそれがコインになり、さらにそれと引き換え可能な証券として紙幣が使われるようになり、ついには貴金属と引き換えできなくなっても紙幣それ自体が価値を持つようになった。お金ってのはただの共同幻想にすぎないんだよね。そしていまは現実世界に紙幣すら必要なくて、電子データさえあればいいというSF世界w

そもそも金や銀がどうして価値があるのかというと、「価値がある」と思ってる人が多いから価値があるだけなわけで、もし世界中の人間が一斉に金や銀が無価値だと思えば、まったく無価値になるわけで。紙幣と同様、金や銀の価値も幻想でしかない。

それと同じ原理で現代の為替や株の世界も動いてる(円に価値があると思う人が多ければ円高になる、A社の事業が成功すると思う人が多ければA社の株価は上がる)わけで。だからみんな自分の資産をどうやって維持するか、もしくは増やすかを血眼になって考える。円で持っておくか、米ドルか、あそこの株だ、いや国債、いや不動産、いや高名な画家の描いた絵……とか。しかしどれもその価値は絶対的な保証をされていない。紙幣はいつ紙くずになるか、絵画はいつただの落書きになるか、みんなが価値があると思い込んで高騰した価値がいつ無価値になるか、それは誰にもわからない。バブルはあとからそう呼ばれるのであって、はじける前は誰もそんなふうには思っていないものだ。千年後には「古代人って金や銀に価値があると思ってたんだぜ、アホじゃね?」といわれているかもしれないのである。

じゃあ価値ってなんだろう……って問いには、実は誰も答えられない。それはどんなに頭のいい経済学者でもわからない、いまだ解き明かされていない難問なのだ。

ホント、経済っておもしろい。





そして紙幣の歴史コーナーへ。このへんはまったく見たことない。





500円札と聖徳太子の1万円札はかろうじて見たことある。旧諭吉と夏目漱石は普通に使ってた。





新渡戸稲造がなんかやたら懐かしい。全部同時に切り替わったはずだけど、5000円札は見る機会が少ないからかな? そして存在が空気すぎる2000円札……。やっぱお札は人の肖像じゃないとお札っぽくないよね……。





顕微鏡で紙幣に印刷されたマイクロ文字を見られるコーナー。国立印刷局の印刷技術すごすぎわろた。





もしもの世界~銀行のない世界。

給料は茶封筒で手渡し。スケジュール帳は請求書の整理や支払いの予定でびっしり。請求書の封筒には「時差支払いにご協力を 月末の支払い窓口は大変込みあいます」と書かれている。

おもしろいwww





この資料館マジおもしろい。なにこのワンダーランド。映像資料もぜんぶ見ちゃう。





実際に使われてた金庫。扉ぶ厚すぎわろた。





すげー。これだと何億円分くらいになるんだろ。





これが1億円。100000000円。数字にするとやたらすごいけど、持ってみたらめちゃくちゃ軽かったwww10キロしかないらしいwww

こんな軽いもののために多くの人が血眼になるんだよなあ。これで人が死ぬのなんてしょっちゅうだし。なんかいろいろ考えさせられるわ。





前世紀の日本やドイツのように、経済が正常にまわらなければ国は戦争へ向かっていく。多くの人が死ぬ。だから経済はあるていど人為的に操作されなければならない。それは全体主義ではなく、歴史の積み重ねによる人類の叡智だ。

経済が過熱しすぎてインフレになりそうなら金利を引き上げる。金利が上がるとお金が借りにくくなるので世の中に出回るお金の量が減る。そして過熱が収まる。

経済が冷え込んでデフレになりそうなら金利を引き下げる。金利が下がるとお金が借りやすくなるので世の中に出回るお金の量が増える。そして経済が活発化する。

いままではこれでうまくいってたけど、いまの日本はゼロ金利にしてもデフレ脱却できない。グローバル化がここまで進行した現代では、世の中に出回るお金の量を増やしても、それが国内を循環するとは限らないからだ。

私なりに解釈すれば、利子率の低下とは、資本主義の卒業証書のようなものです。したがって、金利を下げられない国は、まだ資本主義を卒業できていない状態にあり、金利が下がっても不平・不満がなくならない国は、卒業すべきなのに「卒業したくない」と駄々をこねている状態です。
水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」Kindle版、位置No.1189

少し前に読んだ新書にこんなことが書いてあって、すごく納得してしまった。それが本当に正しいのかどうかは、まだ経済を勉強し始めたばかりの僕には判断できないけど。





お金は社会の血液、天下のまわりもの。お金が留まることなく流れることで社会が健全な状態に保たれる。でもいまはいたるところで血栓ができていて、それが世界的な不況の原因になっている。

貨幣には交換機能、つまり流通しようとする力と、価値の保蔵機能、つまり蓄積しようとする力、相反する力が同居しているのだけど、いまは後者の力が勝ってしまっている。

市場を自由に任せれば富が一極集中するのはいつの時代も変わらない。「自由」は往々にして強者が弱者から富を奪える自由という意味で使われるものなのだ。2008年に起きたリーマン・ショックも行き過ぎた自由の帰結だ。

何年か前に、リーマン・ショックに関するドキュメンタリー映画を見たのだけど、その中でとても印象深かったシーンがある。

ポールソン主催の夕食会に出た。1年少し前だ。政府職員や大銀行のCEOも同席していた。驚いたことに彼らは自らを強欲だと言い合い、責任の一部はあると言った。そしてポールソン長官に言った。「規制してくれ、我々は強欲だ」「もっと規制するしかない」
「インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実」

これを見たとき、「モモ」の終盤のシーンを思い出した。

「さあ、花をよこすんだ!」
 男があえぐようにそう言ったとき、そのちびた葉巻は口からポロリとおちて床にころがりました。男はどうとたおれて、のばした手で必死に葉巻をつかもうとしますが、もうとどきません。灰色の顔をモモにむけて、やっとのことでからだを半分起こし、ふるえる手をさしのべました。
「おねがいだ。いい子だからたのむ、花をくれ!」
 モモはすみにちぢこまったまま、花を胸に押しあてて首をよこにふりました。ことばはどうしても出てきません。
 さいごの灰色の男はゆっくりとうなずきながら、つぶやきました。
「いいんだ――これでいいんだ――なにもかも――おわった――」
 そしてこの男も消えてゆきました。
ミヒャエル・エンデ「モモ」岩波少年文庫pp.389-390

それまで機械のようにひたすら「時間の花」を蒐集していた灰色の男が、最後に「これでいい」とつぶやきながら消えていく、このシーンになぜか重なった。

自分で自分を律することのできる人間は少ない。人は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。独裁政治も、ワンマン経営も、気弱な人間を「いじり」最後には「いじめ」に発展する毎度おなじみのやつも、同じ原理が働いている。「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」のだ。そしてそれが目も当てられない惨事を引き起こすのも毎度おなじみである。

だから現代日本は司法と立法と行政が分かれていて、お互いに権力を抑制するような機構になっている。三権分立を唱えたモンテスキューという人は人間の本質をよくわかっていたんだと思う。

そのおおもとにある憲法(国の根幹部分にあるのが憲法→立憲主義)も、法を作る人間でさえも従わなければならないという点で為政者の権力を抑制するものだし、株式会社の監査役なんかも経営陣の暴走を止めるためにある。こういうふうに考えていくと、いまの社会のあり方というのは、まだまだ未解決の問題はあるにせよ、非常によくできているのだ。

という感じで、社会科・公民科もおもしろいよね。





貨幣の価値は「信頼」によって保たれる。そしてその「信頼」を保つためには、法が必要であり、軍隊が必要であり(たやすく他国に侵略される国の通貨なんて誰も信用しない)、安定した政治体制が必要であり、国民全員が安心して働ける環境が必要であり、ホント、経済ってのはすべてにつながってるんだよね。

最初は世界一周アプリを作ってただけだったのに、なんで自分はいま経済を勉強してるのか、最近よくわからなくなってきてたんだけど、ここに来てその意義を思い出した。そう、経済を理解するってのは、世界を理解することそのものなのだ。

まだまだ勉強不足でわからないことだらけだけど、ひとつだけ確信できるのは、お金は使うものであって、使われるものではないということだ。貨幣とは本来、社会を豊かにするための道具でしかない。貨幣はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。資本主義に順応して拝金主義者になるのも、反発して嫌儲になるのも、どちらも使い方を誤っているという点ではたいして変わらないのだ。権威が押し付ける知識を疑いもせずに受け取るのと、陰謀論のような反知性主義が、知性の使い方を誤っているという点では変わらないのと同じように。

少し前に、最近よくあるやたら長いタイトルのラノベ原作アニメを見ていて、ふいに泣きそうになったシーンがある。

扇風機ってすごいな。うちのお店って、こんな便利なアイテムを売ってるんだ。こういうのを売って、みんなを便利にして、やっぱりマジックショップの店員ってかっこいいな。
「勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。」7話

こういう瞬間があるのは自分の労働を振り返ってみてもよくわかる。たとえばコンビニでレジを打っていて、お客さんに「ありがと」といわれたとき。たとえば交通誘導していて、ドライバーが軽く手を上げてくれたとき。たとえば自分が開発したプログラムが、実際の業務の中で運用されているのを見たとき。そんなとき、なぜか僕は「自分は生きていてもいいのかもしれない」と思ってしまう。ある種の充実感のようなものが、生きている実感があるのだ。

それは自分の仕事が社会に対して何らかの作用を及ぼしているという実感、自分が世界の一部である――社会を動かす歯車のひとつなのであるという実感だ。そして、仕事がおもしろく感じるのは、往々にしてそういうときだ。

逆に、自分の仕事が社会に対して何の作用も及ぼしていないと感じるなら、どんな高尚な仕事でも空虚さしか得られないはずだ。

誰にも必要とされない職業は職業として成り立たない。誰かが必要とするからこそ職業は職業として成り立つ。そして誰かに必要とされたとき、人は自分の存在に意味を感じられる。「自分は生きていてもいいのかもしれない」と思える。

すごいことだよな。俺様が稼いだお金で買い物ができたんだぞ。すごいな。レオンでお客さんが欲しいアイテムを買って、そのお金が給料になって、俺様もこうして欲しいものを買う。もしかしたら、これはそのお客さんが作ったものかもしれないんだ。みんながみんな、つながってるんだよ。食うか食われるかだけじゃない。ここは、魔界とはぜんぜん違うんだ。自分のためにお金を稼ぐことが、人の役に立ってるんだ。みんなが欲しいものを手に入れて、みんなが笑顔になれるんだよ。こんな仕組みを考えつくなんて、人間てすごすぎるぞ。俺様が働いているのって、こういうことなんだ。感動したぞ。
「勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。」9話

勇者になれず普通の職についた主人公も後輩のその言葉で気づく。職とは何か、働くとはどういうことか。

考えもしなかった。俺は、ただ生活のために、しぶしぶ就職するしかないって、本当はこんな仕事じゃなくて、勇者こそが、世の中のためになる仕事だと思っていたのに……。

世界を救う職業は勇者だけではない。この世のすべての職業が、世界を少しずつ救っているのだ。それは子供のころに思い描いたようなドラマティックなものではないかもしれないけど、だけど決して、諦めでも妥協でもない。大切なのは特別な存在になることではなく、誰かに必要とされる存在になることだ。

お金とは、個人が社会とつながるためのツールだ。お金を稼ぎ、お金を使う。ごくあたりまえの経済行為だけど、この行為の裏には、生きていく上でとてつもなく重要な要素が隠れている。

自分が誰かからお金を受け取るときは、自分が誰かに必要とされたときであり、自分が誰かにお金を渡すときは、自分が誰かを必要としたときなのだ。

そして、誰かに必要とされたとき、人は「自分は生きていてもいいのかもしれない」と思える。自分の存在に意味を、価値を感じられる。

現代社会は分業によって成り立っている。交換によって発展していく仕組み――それが経済だ。そういってしまえば身も蓋もないけど、僕はそれをこう言い換える。

現代社会では誰もが誰かを必要としている。互いが互いに生きる意味を与えあう仕組み――それが経済だ。

そしてその仕組みの中で生きていくために必要なのが「学ぶ」ことだ。それはただ机に向かって勉強するという意味だけじゃない。本を読み、考え、旅をして、人にふれ、経験を積み、技術を磨き、働いて、対価を得て、それを使う。そんなすべてのことが学びなのだ。

そうして成長し、多くの人に必要とされる人間になれば、誰にもこびへつらう必要がない。なめたまねをしてくる奴がいればいつでも中指を立てられる。どちらが上か下かということなく、正当な交換関係で対価を得て、自分の力で生きていける。

その「誰にも隷従せずに生きる力」が、学びによって得られる技術や知識や経験なのだ。それらは社会の中で交換可能なものでありながら、決してなくなることはなく、誰かに盗られることもない。

それこそが僕にとって本当に価値あるもの。本当の富。

それが「学問のすすめ」で福沢諭吉が伝えたかったことであり、だからあのオッサンの肖像が日本の最高額紙幣に印刷されているんじゃないかって、僕はそう思っている。





金融資料館はそれほど広い施設でもないのに、おもしろすぎて2時間近くいてしまったwwwその間にいつのまにか雨が降ってたみたいだけど、もうほとんどやんでたので、また堺町通りをブラブラ歩く。





小樽オルゴール堂2号館へ入ってみる。このあたりは普通のオルゴール。





「これオルゴールなの?」といいたくなるオルゴールもたくさん。





なんか演奏会が始まった。もうこれオルゴールってレベルじゃない……。





紙にパンチしてあるデータを読み取るみたい。すげー。





こっちはディスク式。オルゴールって言うとシリンダー式しか思い浮かばないけど、こんなにいろんな記録媒体があるのか。「この部分が凹んでたらこの音」みたいなプロトコル(通信規約)があれば、実はなんでもいいんだよなあ。ノイマン型コンピュータも基本はそれでしかないし。





小樽オルゴール堂1号館へ。こっちはアンティークじゃなくて量産品。





雨が強くなってきたので中でいろんなオルゴール聞いてまわってたらいつのまにか1時間以上たってた。





雨が上がったのでブラブラ歩いて田中酒造へ。





そしてまた工場見学。





試飲してうまかった「しぼりたて生原酒」を買って帰って、またオーナーたちと飲む。火入れしてない生原酒って初めて飲んだけど、フレッシュな感じでうまい。熟成した日本酒もいいけど、たまには「新鮮」な日本酒もいいね。