2014/12/09

希望不要論

 日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。――弁士は字幕にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
 それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、
「嘘こけ! そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
 と大声を出したものがいた。
 それで皆は大笑いに笑ってしまった。
 後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。
小林多喜二「蟹工船」
俺がシド・ヴィシャスって大っ嫌いなの知ってるだろ。何でだろうなって考えて、最近わかったんだ。あれはね、シドが嫌いなんじゃなくて、まつわる物語が気に入らないんだよ。それを賛美する連中も嫌いだな。悲しくなるように自分で勝手に作って、自分で勝手に陶酔してんだ。そんなの、くそっくらえだよな。連続性だとか、継続だとか、因果関係だとか、死ぬほどどうでもいいってことだよ。瞬間が全てなんだ。本人はそんなに悪い人じゃないと思うけど、くだらないメロドラマはごめんだ。人生を馬鹿にしてやがる。何でもかんでも物語仕立てにしやがって。そんなにみんな、ストーリーが好きなのか。俺は全然否定するね。ドラマなんか、くだらないよ。なあ村上、大事なのはその瞬間に全てをかけることなんだ。パンクロックはスパークだ。そう思わないか?
OVERDRIVE「キラ☆キラ」
諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることはできぬ。
入矢義高 訳注「臨済録」p.51



12月になった。

何かをしていても、何もしていなくても、等しく時間は過ぎていくもので、気づけば札幌に来てから3ヶ月になろうとしている。その間の話は、特筆するようなことは何もない。





免許証の有効期限がせまっていたので更新した。もちろん住所は札幌。





新しい免許は裏面で臓器提供の意思表示ができるようになってた。でもこれだと住所変更が2回くらいしかできないのでは……(そのあとはたぶん上に紙を貼ってそれに記載する)。





住み始めてしばらくして気づいたけど、中央図書館はかなり不便な場所にある。市内の図書館の蔵書は予約して取り寄せれば他の場所でも受け取れるので、地下街にある大通カウンターをよく利用している。





西日本は基本的にエスカレーターの左側を空けるけど、東日本は右側。最初はものすごい違和感があったけど、これもだいぶ慣れてきた。意識せずとも普通に左側に立つようになった。






11月中旬にはいきなり雪が積もった。






こんなところで本当に冬を越せるのか、少し不安になった。





大通公園はいつも何かしらイベントをやっている。いまは「ミュンヘン・クリスマス市」と「さっぽろホワイトイルミネーション」。





イルミネーションは大通公園だけでなく、街角でも見られる。





選挙のお知らせが来たと思ったら福島からだった。住民票は9月に異動したけど選挙人名簿のほうは今回の選挙に間に合わなかったみたいだ。今回は不在者投票か。投票所の空気ってけっこう好きなんだけど、仕方ない。




そんな感じで特に変わったこともなく、部屋に引きこもりつつ旅行記(このブログ)を書いたりしていたら、あっという間に12月になっていた。でもそうしてアウトプットしたことで、ここ最近インプットばかりでごちゃごちゃになっていた頭の中を、すっきりと整理することができた。

そして、その整理の過程で、ひとつわかったことがある。この世界には、特別なものなんてどこにもないということだ。

僕はずっと自分の人生には夢も希望もないと思っていた。それは別の見方をすれば、夢や希望のある人生こそが是であって、夢も希望もない人生は否定すべきものだと思っていたということだ。

でも同時に、僕はずっと夢や希望という言葉にどこかうさんくささを感じていた。だからずっとそれらを蹴り飛ばし続けてきた。どうしてそんなことをしなければならなかったか、その理由がようやくわかった。

そもそも、人生には夢も希望も必要ないのだ。そもそも、それはこの世界に存在しないもの、誰かの創り出した絵空事、フィクション、人間の弱い精神が生み出した虚妄でしかないのだ。それが存在するという思い込みは、ただのイデオロギーなのである。

人生を変えるような劇的な出来事なんて起こらないし、運命の出会いはただの錯覚でしかない。無名の貧乏人が富豪になるようなサクセスストーリーもありえないし、家族に見守られながら笑って死んでいく一大ハッピーエンドもありえない。

都会できらびやかな暮らしをしても、田舎で畑仕事をしても、街から街へ旅をしても、そこに何らかのドラマを見出して、特別な何かを期待している限り、それは借り物の人生でしかない。そんなものが本物の人生であるわけがない。

人生が誰かの真似事で終わっていいはずがない。映画や小説の物語を「消費」するように自分自身の人生まで物語として「消費」していいはずがない。それはもっと切実なもののはずだ。もっと現実的で、退屈で、くだらないもののはずだ。

この世界には特別なものなんてひとつもない。人生には夢も希望も必要ない。それらが実在するかもしれないという虚妄を全力で蹴り飛ばしながら、僕はこのありふれた日常を淡々と生きていく。特別なことなど何も起こらず、何のドラマもない、このガラクタのような日々を、これからも生きていく。